スタートライン
いま現在は〈heavysick ZERO〉の所属ではなく、フリーのエンジニアでいいんですよね?
Che Queそうですね。場所としては〈heavysick ZERO〉がいまだにもちろんホームという感じですけど。最近は〈SUPER DOMMUNE〉のオペレーションが準レギュラー的にわりと入っていて、その上で渋谷の〈Contact〉なんかで個別のパーティ、あとはアーティストによってPAとして入るという感じですね。あとは最近コロナでライヴがなくなちゃってますが、Undefined、Skillkillsの専属ライヴPAでもあります。
そもそもですが、エンジニアになったきっかけはなんなんでしょうか?
Che Que元々はヒップホップやダンスホールレゲエが好きで、のちにルーツレゲエや、ダブも聞くようになりDJから音楽の世界に、その後は徐々に知り合いのトラック制作の補助をしたり、バンドの録音をしたりとか、そういう制作方面に興味が出てきたという感じですね。そこでまずはレコーディング・エンジニアになろうと。そこからエンジニアの勉強からはじめて。いろいろと手伝いをしながら勉強をしていて、ただ、レコーディングの世界って拘束時間も含めて時間との闘いという感じがあって。その時間軸に対して自分が飽きっぽい性格もあって合わないかなと(笑)。そのなかでPAの現場に手伝いで連れて行かれることもあって、そちらの方がおもしろいなと思うようになったのがきっかけですね。それでその当時手伝っていたスタジオを辞めて、当時から遊びに行っていた〈heavysick ZERO〉に「スタッフとして働かせくれないか」と頼みに行きました。ここで経験してれば、いずれPAができるようになるんじゃないかと安易な考えで……それで入ったのがたぶん2009年ぐらいとかかな。最初は〈heavysick ZERO〉の中野店ではなくて、幡ヶ谷の方の店舗〈CLUB HEAVY SICK〉だったんですよ。あっちの方がライヴハウスという感じだったのでバンドが多くて、バンドのオペレートを学ぶにはちょうど良い環境でした。
そこからスタートして、のちに中野の音響もやるようになって……そこでクラブのPA的なところもやるようになってという感じですね。
たしかちょうど改装した頃ですよね。それまで結構小バコのクラブっぽかった記憶が。
Che Queそうですね。そこでスタートして、こちらの中野の音とかもやるようになって……そこでクラブのPA的なところもやるようになってという感じですね。
その後、わりと箱付きのPAという活動でキャリアを積んでということだと思いますが、ご自身のいまのキャリアで大きな出会いというと、やっぱり秋本武士さんとの出会いだと思うんですが。
Che Que出会いというとまさに〈heavysick ZERO〉なんですけど、震災の少し前くらいだと思いますが、当時、DRY&HEAVYのお二人が〈Black Smoker〉から出ている12インチの「DRY & HEAVY / ONE SHOT ONE KILL」を〈heavysick ZERO〉でセルフレコーディングされていて、たまたま店側の人間としてマスタリング直前の最終行程の現場に立ち会いしたのがきっかけですね。
あの12インチの音源ってたしか、テレコだか、カセットテープで録音されたものですよね。
Che Queそうそう、七尾さんが持ってた4チャンネルのカセットMTRで録った素材ですね。確か1chは七尾さん、2chは秋本さん、3chは河西さん、4chはKさん、のような振り分けで。そしてミキシングの最終チェックを、そのMTR内でやっていていました。ともかくその頃ぐらいから、THE HEAVYMANNERSやDRY&HEAVY含めて繋がりができてきました。
THE HEAVYMANNERS
その後、ライヴ・ダブ・ミキシングのエンジニアとしては、たしかDRY&HEAVYよりもTHE HEAVYMANNERSの方がチェケさんって最初ですよね。ここでTHE HEAVYMANNERSも練習していたとか、なんというか道場というか私塾というか(笑)。とにかく秋本さんとレゲエのグルーヴを出すためにとにかく練習をしていたという話は聞いたことがあるんですけど。
Che Queそうですね。ここ〈heavysick ZERO〉でやってました。当時のTHE HEAVYMANNERSは、2000年代の1stをリリースした頃のメンバーから秋本さん以外入れ替わっていて、その第1期にカズくん(Sahara / Undefined)もいたんですですけど、時期的にはその第1期から数えると、僕が係わりはじめたのが第2期後半から、厳密に言うと第3期という感じですね。2ndの『Survival』を出す前で、2nd制作期にキーボードとギターリストが変わったのが第2期。さらにエンジニアもそのあたりの時期に変わっていて、そのエンジニアが辞めて自分になって第3期という感じで。同時に当時ドラヘビの12インチが〈Black Smoker〉から出ているという時期で。
ちなみにここで秋本さん関連の練習とかをするというような座組になったのはなにかタイミングが?
Che Que元々は普通にリハスタでやってたんですけど……なんのタイミングでここでやろうって話になったんだっけ……。あ、たしか秋本さんのベースアンプは、当時高円寺の〈マーブルスタジオ〉っていうところに預けてあったんですね。当時はそこでREBEL FAMILIAやTHE THE HEAVYMANNERSの1stアルバムのレコーディングもしていたらしいです。だけど、そこに預けられなくなって、〈heavysick ZERO〉で預かって欲しいというのが最初で、秋本さんから、平日の営業していない日にスタジオとして使わせてくれないかという話になったんじゃないかな。もちろんスタジオとしてレンタル代はいただいていて。
チェケさんも、その練習生活のなかに組み込まれていくんですね。ちなみにダブ・ミックスは独学なんですか?
Che Queその少し前あたりかな、当時〈heavysick ZERO〉のスタッフで尺八奏者のまっちゃん(松本宏平)がいて、彼と、犬式のドラマーのカッキー(柿沼和成)が、ちょうど犬式が活動休止になったタイミングだったと思うんですけど、その時期にここで働いていて。そのメンバーと自分で、なんとなくスタッフのセッション・バンドみたいな感じで自分も関わるようになって。音楽的にもダブの要素があるバンドでもあったから、僕が遊びでダブをやるっていう話しになって……やったことなかったんですけど、それがはじめかな。で、そうこうしているうちに、秋本さんに声をかけてもらって練習に関わるようなり、前のエンジニアが辞めて、自分がやるようになってTHE HEAVYMANNERSのスタジオリハーサルに毎回参加するようになりました。そこから秋本さんや當山さん(THE HEAVYMANNERS、CULTIVATORのドラマー)からレゲエの音源を参考に教わるようになりました。
やっぱり、具体的にどこがどうというよりは、やはりバンド全体としてひとつの生き物のようにというか、とにかくバンドとして反射的に身体に染みつくまでやり続けるというか。
Che Queもちろんそういうスタイルですね。僕が入ったときはセカンド・アルバムのリリース前でレコーディング、ミックスダウンを終えて、リリース・パーティに向けて見習い中と言う時期でした。そして、そのリリース・パーティでTHE HEAVYMANNERSとして現場での初ダブ・ミックスが〈LIQUIDROOM〉という(笑)。まだ単純にPAとして、ひとりでリキッドルーム・クラスをやるなんてテクニックはなかったんで、メインのPAエンジニアはTHA BLUE HERBなどやられているナオミさんにお願いして、僕は単純にTHE HEAVYMANNERSのライヴ・ダブ・ミックスの音の部分だけやるという感じでしたけど。
でもまだそのときは〈heavysick ZERO〉の箱付きのPAだと思うんですけど、そこから本格的にフリーになるきっかけは?
Che Queきっかけ自体はTHE HEAVYMANNERSの活動と並行しつつで当時復活したDRY&HEAVYの活動も増えてきてという時期だったんですよ。THE HEAVYMANNERSに関わるようになった当初は、まだDRY&HEAVYのダブ・ミキサーは固定ではなく、ミキサーをその都度変えてやっていて。
NUMBさんとかやれてましたよね。
Che Queそうこうしているうちに、だんだん僕にも振られるようになってきて……それは秋本さんが認めてくれたのかなという。でも、とにかく一時期、その秋本さん関係のライヴのダブ・エンジニアとしての本数がそれなりになってきて、〈heavysick ZERO〉に入れる日が少なくなってきてしまったんですよ。自分的にそれで社員扱いはよくないなと思って、会社からなにか言われたわけではなかったんですけど、自分からフリーになると言って。〈heavysick ZERO〉自体はアルバイトのような形で関わることになったんですよね。そのあたりから、それこそ〈Black Smoker〉関連のイベントでも、「お前ちょっとエンジニアやってくれ」という話が出てきたりして、徐々にフリーのエンジニアとしての仕事も広がっていって。まぁ、どうだろう、きっかけというか、結果気づいたらフリーになっていたというやつですね。意識してフリーになったというよりも。