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talking place 内田 直之インタビュー:〈後編2-1〉 ─ダブ・エンジニアという生き方─

talking place#14
with Naoyuki Uchida

ライヴとレコーディング

こうしてレコーディング・エンジニアの道を歩むわけですが、ドラヘビもリトテンもメンバーとして名を連ねて、90年代の後半になると、こうしたバンドでのライヴPAとしてのエンジニアも増えてくるわけですが。

内田ライヴPAは最初全然できなくて。とにかくライヴとレコーディングってエンジニアの方法論として全く逆なんですよ。似て非なる業種といってもいいと思う。レコーディングはプラスすることが可能なんだけど、ライヴでプラスをしていくと必ずハウリングという事故が起こるんですよ。だからプラスしちゃいけなくて、マイナスして音を作らなくちゃならないんですよ。それが全然わかってなかったから、もう最初の何本かは事故しかなかったですね(笑)。本当に無免許運転っていう感じでひどかった。PAは本当はやりたくなかったんですよ。例えば、まず驚いたのは、対バンとかいろいろ出るイベントの場合、リハーサルで卓の設定を作っても、すぐにいったんバラさなくちゃいけなくて、それがレコーディングをやってきた人間からしたら信じられなくて(笑)。

いまだとデジタルの卓で設定をある程度呼び出せるんでしょうけど。簡単に言えば、せっかく現場の音響にあわせて微調整した様々な設定を、0の状態に戻して次のリハなり出番のPAさんに引き渡すってことですよね。

内田そう、だから当時のアナログの卓はそれぞれを全部メモするだけで、全部バラすんですよね。でもメモって言っても、レコーディングのエンジニアからしたら音を作った後は、たった1mmでもフェーダーを動かすのですらありえないというのが常識だったから。そういうのが理解できなくてすごい苦しんでた。

それぞれ専業の職業ですからね。エイドリアン・シャーウッドみたいな人はいますけど、なかなかいらっしゃらないですよね。レコーディングもPAもやるというのは。

内田そう、両方それぞれにそれぞれが深い職業だからね。

とにかくそこからは現場でという。

内田なので現場のライヴPAのエンジニアの方にとにかく質問しまくって、教えてもらうということをやってましたね。そうやってお世話になったPAエンジニアの先輩方はたくさんいます。DRY & HEAVYが一番最初にリキッドルームのZettai-MuでやったときについてくれたPAが小野(志郎)さんという方なんですが、すでに亡くなられていて。リキッドルームなんかの音響を取り仕切っているアコースティックというPA会社の、前の専務さんですね。小野さんがドラヘビのライヴをむちゃくちゃ楽しんでくれてて、いろいろ教えていただきました。個人的にそうしてライヴPAの師匠だと思っているのは、小野さん含めてアコースティックの方たちですね。佐々木(幸生)さん、樽屋(憲)さん、武田(雅典)さんにはすごいお世話になりましたね。でもいまだにライヴPAは、無免許ですけどね(笑)。

さすがに、そろそろ(笑)。

内田苦労というか赤っ恥かいたことも数え切れないほどありましたよ。

2000年前後は、LITTLE TEMPOやドラヘビの活動も活発になってというところですが、同時にレゲエ以外のフィールド、例えばあぶらだこやDMBQなんかのハードコア・パンクやオルタナティヴ・ロック系の仕事、言ってしまえばレゲエ以外の現在のタートルアイランドやGEZANとの関わりに通じるような流れも出てくるわけですよね。レゲエとは違ったフィールド、もちろん〈ゴーゴーキング〉でいろいろなジャンルを経験されているとは思うんですけど。

内田でもやっぱり最初に言ったように、例えばあぶらだこなんて10代の頃に僕は聴いていて。「あのあぶらだこの仕事が来ちゃったよ!」という感じで。なんというか学生の頃の自分にとっては、雑誌の中の人という。そういう存在だったので、そこに染みついている感覚というのはやっぱりあって。10代のときにインストールされたものは一生続きますね。そうしたハードコア・パンクとかオルタナティヴ・ロック的な音は、わりと自然に自分のなかにあって、できたという感じですかね。でも、とにかく自分は録音するということが好きなんですよね。それはレゲエだけではなく、そのほかのジャンルにおいても。そういうところでいろいろなつながりができてというのはありますね。

牧郷ラボ

2000年代後半以降は、レゲエでのレコーディングやダブ・ミックスはもちろん、さまざまなジャンルで活躍されていますが、現在拠点となっているこのスタジオに関する話に移れればと思うんですが、この廃校となった旧牧郷小学校の校舎を使った「牧郷ラボ」の一部の教室を使って、このスタジオがあるということなんですが。ちょこっと、取材前にお話がでましたが改めて。2008年に都内からこの近くに引っ越してこられたということですが。

内田そうですね。

そうだ、その前段として〈ゴーゴーキング〉から独立したのは何年頃なんですか?

内田2000年ぐらいかな。

ドラヘビ、リトテンが軌道にのったあたりという感じですかね。

内田そうですね。で、いまここに来る前は、卓を自宅の六畳間の和室に持ち込んでこのアナログの卓を通してPro Toolsでミキシングしていて。もちろんレコーディングもできないのでミキシングだけそこでやって、レコーディングなんかは外のスタジオでという仕事の仕方ですね。

さっきの話に戻りますが、ここは廃校の校舎ですがアートを作るアトリエだったりとか、何人かの方が入っているある種シェア・オフィスというかそういう施設という感じですよね。

内田前にこの校舎に入っていたOVERHEADSの助川(貞義)さんたちが中心になって開催していた、ひかり祭りという音楽とかアートのイベントをここの校庭でやっていて。そこに地元というのもあって音響でお手伝いをしていたんですよね。ちなみにこの「牧郷ラボ」もたぶん廃校を使って民間に貸して、というのもわりと最初のケースみたいですね。

ここにスタジオを設立したのは?

内田タイのSRIRAJAH ROCKERSのレコーディングを頼まれたことがきっかけですね。その前にタイで知り合ってたんだけど、アルバム1枚をミックスしてくれとオファーがあって。それが2015年かな、リーダーでヴォーカルのウィンが日本に来て一緒にやろうと。家じゃさすがに手狭なので、どこか場所をかりなきゃっていうことになって。そこで「あの教室ひとつ借りようかな……」と思いついて。最初はワンオフで1ヶ月だけ機材を持ち込んで、そのアルバムだけ作ろうと思ってんだけど。

簡易スタジオ的な。

内田そうそう、そのときの大家さんが「全然使って」って言ってくれて。で、機材持ってきていろいろやってたらものすごい居心地がよくなってきちゃって。それで「借りれませんかね?」って言ったら大家さんが「そう言うと思った!」って見抜かれてて(笑)。すんなり借りれて。

はじめは単なる教室に卓が置いてあるみたいな。

内田そうですね。ミックスするためのブースとして自分で壁を作って囲いをつけて、スタジオとしてちゃんと音的にも調整してという。こういう形になったのは2019年かな。エアコンが付いたのもその頃。夏はいつ熱中症になってもおかしくないようなところで。

過酷ですね……冬もやばそう。インスタなどで廊下にマイクを立てて歌を録ったりというのもあるみたいですが。

内田そうそう。他にアトリエとかも入ってるから、ドラムを録るときは同じ建物の人には話を通しとくけど、ドラムもレコーディングできますね。LITTLE TEMPOの新作も曲によっては隣の応接的なスペースの教室の仕切りが取れるので、そこまで使ってレコーディングしましたね。コロナの緊急事態宣言の頃は、毎日ここに来ていろいろやってました。ライヴもツアーもないからレコーディングするという人もけっこういたので、わりとレコーディング、ミックスをやってましたね。あとはとにかくレコーディングの研究をしてましたね。「いままで俺はなにやってたんだ」と思うぐらい、「これやってなかったわ」と、大事なことで手薄だったことを思い出しましたね。