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talking place 内田 直之インタビュー:〈前編2-2〉 ─ダブ・エンジニアという生き方─

talking place#14
with Naoyuki Uchida

DRY & HEAVY

まだ1990年代前半の話だと思いますが、フル・アナログって、Pro Tools前ですがマスターのレコーダーとかはすでにデジタル化されつつあった時期ですよね?

内田そうですね。マスターはSONYの業務用のデジタル・マルチトラックのレコーダーでPCM-3348という規格が全盛の時代ですね。でも〈ゴーゴーキング〉は、24トラックのアナログ・マルチでレコーディングして、(ミキシング)コンソールはAPIでという。しかもそのコンソールは矢沢永吉さんのスタジオにあったもののお下がり。実は、加納さんは吉野金治さんのお弟子さんなんですよね。そう考えると、1回も吉野さんにはお会いしたことないんですが、なにか縁があって。加納さんは、スカパラとか自分の感覚からすると当時のオルタナな感覚の音楽をいろいろと手がけられてたんで、お誘いを受けたときはふたつ返事で。はじめはアシスタント・エンジニアというかいわゆるスタジオのボーヤですよね。

もろもろの雑務含めてという。

内田それが1995年ですね。スタジオは埼玉県の川越市に。

なるほど。ちなみにですが〈ゴーゴーキング〉でドラヘビやLITTLE TEMPOの初期作品をレコーディングされてますけど、当時はすでにそれぞれのバンドとは付き合いがあったんですか?

内田それで言えば、まずはドラヘビの秋本さんからですけど。新宿の〈テイク・ワン〉の時代に、毎日夜中までアシスタントをして、新宿3丁目にあったレゲエ・バーの〈ボブ〉というところに通ってたんですよ。スタジオでめちゃくちゃ怒られた後に、毎晩のようにそこでくだを巻いていて(笑)。で、その〈ボブ〉で秋本さんと会ったんですよ。そこでの話のなかで、自分はダブ・エンジニアになりたいという話をしたら、「そんなの嘘だろ?」って言われて(笑)。当時の秋本さんは、ヴァイタル・コネクション~オーディオ・アクティヴという流れのなかから、抜けた頃だと思う。それでちょうど新しいバンドをやろうとしていて、ダブ・エンジニアを捜してるという話で。とはいえ当時はそこで話は終わって、秋本さんとは連絡を取り合ってはいたけど発展する感じではなくて。ちょうど〈ゴーゴーキング〉に入った頃に秋本さんから「とうとうメンバー集めたから、やろう」って連絡がきて。

布陣ができたと。

内田加納さんは俺がエンジニアになるためにはなんでも手助けをしてくれるという感じの方だったので、「バンドなんてどんどんやりなよ」って奨励というか後押ししてくれて。他のスタジオだったら、バンドにメンバーとして入るなんてまず無理だったと思う。加納さんの個人スタジオだったからできたという部分があって。〈ゴーゴーキング〉にいたときに、ちょうど声がかかったというのは非常に重要な良いタイミングだったんだと思う。

すばらしい理解者というか。

内田そうですね。そこから毎週1回、秋本さんと、つまりはDRY & HEAVYのリハがはじまるという時期ですね。何時間か吉祥寺の〈分家〉というスタジオでリハをやって、そこから飲み会という日々が続いて。はじめの練習のときんなんて、自分は秋本さん以外のメンバー誰もしらなくて。当時は、七尾("DRY"茂大)さんにしても、マイちゃん(Likkle Mai)、堀口くん(The K)、外池(満広)さんにしても、みんなはもともと〈SLITS〉周辺とか、ドリームレッツ、V.I.P.周辺とかで活動していて顔見知りの人だったから「なんだこの人」って思われたと思う(笑)。

95年ぐらいってことですね。そこからダブ・ミックスの研究が本格的にはじまるという。

内田そう、最初に買ったのがROLANDのRE-201、スペース・エコーですね。それを裸でぶら下げてリハスタに通ってた(笑)。リハというか、当時のドラヘビは曲を作るというのはなくて、全部インプロのセッションで作ってるんですよ。基本的に、はじめの3枚のアルバムはそういう曲ばかりですね。リハスタに来ても「あの曲やろう」っていう感じじゃなくて、誰かがその曲のフレーズを弾き始めたら、そこに合わせて演奏するという感じで。それが4時間とか、だからダブも基本的にはそのセッションに合わせてライヴ・ダブ・ミックス。当初は、とにかくスペース・エコー1台でライヴ・ミックスでなにができるかを延々とリハのライヴ・ミックスで試す時間でしたね。たしか、そうやって集まりだして、はじめてライヴするまでは2年ぐらい間があって、とにかく初期の活動はリハだけ。

過去のインタヴューを読むと、〈ゴーゴーキング〉の空き時間にいろいろとレコーディングも試したりしてたというような話ですが。

内田そうそう、〈ゴーゴーキング〉が空いている時間にドラヘビのメンバーを呼び込んで録ってみようっていう。たしか、社長の加納さんが海外旅行に行ってたときとか。そうやって録ったのが一番最初に出た12インチ・シングル「Somebody Has Come」(1998年)。あの曲も「この曲を録ろう」というのはなくて、セッションから「コレでいこう」って作って。マイちゃんも、(井上)青ちゃんも、常に歌詞は書きためてるから、セッションの上にそれを載せるというのをいつもリハでやってて、だからなんか出てきたら歌をのっけて、それじゃ、これで録ろう。で、このあとミックスでというような状態で作ってましたね。

LITTLE TEMPO

そのシングルが前述の高橋弘雄さんの〈Olive Disk〉から出て、アルバムへということなんですかね。

内田〈Olive Disk〉でいうと、これまたちょっと話が前後するんですがLITTLE TEMPOの話もあって。話は〈テイク・ワン〉の時代に戻るんだけど、高橋さんが〈テイク・ワン〉によくきていたとき、自分はロビー係をやりながら電話番をしていて。そのロビーで自分の好きなレゲエとかダブの曲を入れたミックステープをかけながら仕事をしていて、そうしたら高橋さんが「君はレゲエ好きなの?」というところから話すようになって。で、その後、もちろん〈テイク・ワン〉クビになった後だけど、渋谷のWAVEでばったり高橋さんにあったんですよ。そのとき、高橋さんが「今度LITTLE TEMPOってレゲエのバンドのレコーディングしようと思ってて、だけど、廣田(哲也 / 〈テイク・ワン〉エンジニア )に頼もうと思ってたんだけど、うっちゃんに頼もうかな」って気まぐれで言ってくれて(笑)。時期的にはドラヘビの「Somebody Has Come」をレコーディングした直後、むしろエンジニアとしては、それしかやったことがない時代。だから高橋さんが俺に無茶振りしてきたのを引き受けたというか。その流れのなかで「Somebody Has Come」を高橋さんに聴かせてみたら、「めちゃかっこいいから〈Olive Disk〉から出そうよ」という話になって。それで話が決まっちゃったという。

ドラヘビのリリースもそこで決まるという。わりと紆余曲折ありながら以前のつながりがどんどん新たな流れを作っていくというか。そこからリトテンにもエンジニアとして加わるわけですね。まずはレコーディング・エンジニアとして。

内田俺が〈ゴーゴーキング〉でレコーディングしたのは『Way Back Home』(1997年)というリトテンの実質のファースト・アルバムですね。リトテンは、自分が関わっていない前のシングル(『Latitude』)もそうなんですが、ミックス自体はロンドン、ブリクストンのリントン・クウェシ・ジョンソンがやっていた〈Sparkside Studio〉でやっていて。ちなみにそこのオーナーはマトゥンビのベーシスト、イートン(ブレイク)って言う人。『Way Back Home』は各パートのレコーディングを俺がマルチ3本分やって、それを土生(剛 / LITTLE TEMPO)さんがロンドンに同行してミックスするという。俺も見学したかったので、当時の知人にお金を借りてついていきました。ミックスはLKJのバックをやっていた、デニス・ボーヴェルのダブ・バンドのキーボーディスト、ヘンリー・ホルダーがやってくれて。ミックスを食い入るように見ましたね。それで卓の使い方を覚えたという感じで。ヘンリーはデニス・ボーヴェルにエンジニアリングを教わってた人で、もともとがキーボーディストなんで、ミックスというかフェーダーの上げ下げが鍵盤弾くみたいで、すごく音楽的なわけ。いわゆるミックス・エンジニア出身の人にはないアイディアが斬新で。それで3日~4日ずっと後ろで見ていて。また土生さんがああいう人なので、みんなに可愛がられてて、「ヘンリー、ダブ・プリーズ!」って感じで、ヘンリーも困った顔で「わかったわかった」みたいにやってて(笑)。

たしかに、そのダブ・アルバムもヘンリーさんですよね。土生さんっぽいエピソードですね、人の懐にすっと入っていける感じが。

内田周辺のそうそうたるアーティスト、誰にでもかわいがられてて、リコ(ロドリゲス)とか、リントン、マイケル・バミー・ローズ、デニスとか。

UKレゲエのオールスターじゃないですか。

内田そうそう。ヘンリーも「おまえがいうならやるよ」って、それがあのダブ・アルバム。滞在中は土生さんの部屋に居候させてもらって、そこからすごく仲良くなりましたね。

リトテンのそのあたりの作品が1997年ですね。対してドラヘビのファースト・アルバムも1997年ですね。

内田ドラヘビのファーストも〈Olive Disk〉から作ってくれって言われたわけではなくて、自発的に〈ゴーゴーキング〉で録ってたマテリアルなんですよね。機材の研修と称して(笑)。もちろん加納さんに「勉強したいので空いてる時間に録っていいですか?」という感じで。ドラヘビのメンバーもみんなバイトしてたし、夜中にみんなで集まってレコーディングしてましたね。レコーディング自体は計3日くらいですね。

あのアルバム、他の内田さんのダブ・ミックスに比べて、ちょっとライヴっぽいドロっとしたサイケ感があるというか。

内田ライヴっぽいのは、実はアレはほとんどの曲がラフ・ミックスの方が採用されたからかもしれない。本番のミックスをしたんだけど、秋本さんがラフの方がバイブスが良いっていうのでそっちが採用されて。俺にとっては不服ではあったけど、だからラフ・ミックスが世に出ているヴァージョンで。ライヴっぽい感じが出ているのはそういう背景がもしかしたら関係あるのかも。

その当時、いわゆるレコーディングのエンジニアとしてリトテンやドラヘビをやりはじめた頃によく聞き込んでいたダブ・アルバムってありますか?

内田いろいろ思い出してたんだけど『LKJ IN DUB』かな。

やっぱりまさにそうした系譜の人たちを生で見たことに関係あるんですか?

内田う~ん、実は、そうしたレゲエのアルバムを聴くときに「このダブ・ミックスがすごい」って聴かないんですよね。なによりもやっぱり曲が好きというのがあって。トラックそのものがかっこいいというのがメインですよね。あとは、最初にダブを聴いた時と同じく、やっぱり自分的にはのっぴきならないヒリヒリした感じも『LKJ IN DUB』にはあって。